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遥かなる東国へ……流され王の伝説
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とよきいりひこ 東国を平定し、上毛野氏や下毛野氏の祖となったいう豊城入彦命は第10代崇神天皇の第1皇子である。 だが、天皇の長子である皇子に皇位継承の代わりに、東国の統治者としての権威と名誉を与えたというようなわけではない。 この時代、天皇は大和全域を支配下に置いたものの、まだ日本全域を掌握しておらず、東国も当然まだ「まつろわぬ人々」が住む地であったのだ。 豊城入彦命の崇神天皇は大和全域の支配権を確立し、余勢を駆って日本全域を支配下に収めるべく、四道将軍を任命し、平定行動を開始したとされている。 崇神天皇が10代天皇とされながらも、「御肇国天皇〈はつくにしらすすめらみこと〉」……すなわち、「初めて国を治めた天皇」と呼ばれるのは、この所以である。ちなみにこの時代に「斎宮」も始まり、豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命が初代斎宮となっている。国家としての体勢が整いつつあった時代のようである。 四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというものである。 この中でもっとも有名なのが、吉備津彦命であろう。吉備津彦命が現在の岡山に向かい、土着の勢力を討ったのが、知らぬ者がない「桃太郎の鬼退治」として語り継がれている。討たれた土着の勢力は渡来系だったと言われ、その容貌などから「鬼」に例えられたようである。彼らが築いた山城は「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、その跡が現在も岡山県に残っている。 そんな国家平定の一環として、豊城入彦命は東国行きを命じられたのである。国家平定といえば響きはよいが、つまり独自の勢力をはびこる地域に対する侵略戦争の最前線に送られたようなものである。 戦の最中に命を落とすかもしれず、その地を獲らなければ帰還することもかなわない。「流され王」といわれるほどの辛い役目を帯びての道行きであったのである。 もっとも有名な「流され王」は日本武尊(やまとたけるのみこと)であるが、父の景行天皇に疎まれ、従わない他勢力を討つために各地に赴き、ついには都へ帰ることなく没したという人生は豊城入彦命の人生にオーバーラップする。 日本武尊は系図を紐解くと豊城入彦命の弟の孫に当たるが、その実在は疑われている。豊城入彦命を筆頭に各地に派遣され、戦った皇子将軍達の記憶が日本武尊という一人の英雄を作り上げた、というのが正解かもしれない。 豊城入彦命は日本武尊と同様、ついに都に帰ることなく、東国の地に没したと言う。 豊城入彦命の記憶は今も毛野の地に残っており、前橋市総社の二子山古墳や大室の二子古墳、新治郡八郷町の丸山古墳などがその奥津城として語り継がれ、赤城神社を初めとして様々な神社で祭神として奉られている。 やつなた 豊城入彦命の息子で、上毛野君遠祖といわれている。
ひこさしま 豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている。
みもろわけ 彦狭島命の子であり、その任に就かずして亡くなった父の代わりに、東国に下った。 あらたわけ かんなぎわけ たみち 『伊寺の水門』の場所ははっきりしていないが、おそらく現在の秋田県北部一帯のいずれかであろうと云われている。鹿角郡の猿賀神社には『田道将軍戦没の地』と書かれた墓があるそうである。 前橋の伝説では、田道命の遺体は上野国分寺の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが蛇穴山古墳であるという。 |